あさぎ作小説「終末カグヤ」⑮とあさぎ屋外ヌード

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 視線、幾十もの虹色の眼が、トモカに集中した。久しぶりに思える感覚、思わず背中が強張る。彼女を〝視た〟のは、トンネルの壁面にびっしりと貼り付けられた刷絵だった。半数ほどが墨一色で刷られていたが、残り半数は例の絞り染めの素と同じなのだろう色絵具が使われていて、それで頭上までも色彩の渦なのである。絵は全て異なる人物の顔だった。記念館の壁のような、目眩がするほどの顔・顔・顔――。
眼差したちから逃げるように壁の際へ視界を下げると、彫りさしの木版がうず高く積まれ、丸かったり尖っていたり、粗かったり繊細だったりする木屑が、秋の野の小路に似て散乱している。卯野は、その傍で、既に作業を始めていた。A4サイズの木版に半紙を重ね、円の動きで竹皮のばれんを滑らせていく。じゃかっ、じゃかっ、じゃかっ、と、小気味良い中に柔らかな韻のある音が、辺りの静寂に馴染んで広がった。榊は具合を確かめるように、その後ろへ立って覗きこみ、絢子は色跳ねだらけのボウルに入った色墨を太筆で掻きまわしている。「……誰の、顔なんですか?」紙の裏に、遠い思い出のようににじみ透ってくる輪郭を、トモカは見つめた。卯野の、関節に毛が生えた色黒の指は、爪を均等に白く光らせながら紙の表に弧の軌道を連ねている。
「わからない」
「知らない、人?」
「そう。写真に知らない間に写り込んでたり、新聞やニュースの画面の背景にいたり、卒業アルバムとかで全然知らない後輩とか……。さあ、できた」
 首を傾げるトモカの前に、版から剥離された女の顔が、墨の匂いを放って現れた。写真のように緻密な画線、けれど卯野の体のわずかな力加減や震えを伝えて、線は流れ、線は走る。髪が短く、まなじりに皺と歪なほくろがある。四十歳くらいだろうか。涙袋が大きくて、肩が骨ばっていて、口は、神様が申し訳程度に書き添えたみたいに小さい。勿論、知らない女性だった。こんな人が、なんでもないいつかの日に、公園で子どもと遊んでいた気がした。買い物をしている時、後ろを通った気がした。
「どうして、知らない人を描くの、……ですか?」
 卯野の目の優しさにつられて、思わず友達口調になり、敬語を不自然に付け足す。卯野の顔は、手応えある出来だ、というように榊に頷きかける。
「どうしてだろうね。でも、何もかもがなくなっちゃってから、無性に描きたくなったんだ。人の顔が。……当たり前のことだけど、同じ顔の人は二人いないし、二度と現れない。似てる人はいるけどもね。ここにある顔も全部そう。全部、僕がどこかで会ってた人達なんだよ。人間が何十億もいた中で、一瞬でも会うことができる人は少ない、……はずなんだ。けど、覚えてなかったんだね。僕は毎日、無造作にその顔たちを捨ててた。だから今は、拾い直そうって思ったのかな。僕と一緒に生きてた人の顔を」
 横合いから聞いていた榊が、改めて、壁と床にある絵の顔へ視線を送り返す。トモカの目もそれにつられ、後を追った。張り重ねられた人間の顔の銀河が、電気の呼吸に合わせて、ほの暗い天井でまたたいていた。「今は、いるかもしれないし、いないかもしれないね」と、卯野は言い継いだ。
「どこかで一緒に、同じ朝日と夕日とを見ててくれると嬉しいんだけどね。でもきっと少なくても、半分くらいはいなくなってるだろうなあ……。その中で、お葬式とかしてもらった人は、どれくらいいるんだろ。知っている人に悼まれてるといいな。僕なんかに何が出来てるかって、そんなことは言えないけど、せめて顔を書くことで、遺影の代わりになってくれるといいんだけど」
 遺影、――という言葉が、トモカの胸に水滴のように落ちた。地下の、埋め立てられた川たちや、廃棄された水処理場から繋がって、足のずっと下でいつも鳴っている水脈の漣が、それを受け止める音がした。
「僕は確かに、この人たちを知らない。でも、絵に描かせてもらう時、なんとなく感じられる気がするんだよ。ほんのちょっとした皮膚の張りとか、凹凸とか皺とか、汚れとか傷とか、表情の感じで……。人間って不思議でね。例え初対面で、ひとことも喋らなくても、本気で見つめてただ、ただ描けば、絵が自然に表してくるんだ。時には、その人自身も知らない部分さえもね。実際やるまでは、知らない人なんて描けるのかな、って思ってたけどね。描いてはじめて、それがわかった」
 卯野の実感を裏付けるように、絵の女の切れ上がり気味のまなじりと、ふくよかな涙袋にほんの少しかかる影は、無言の強い自律性と、やさしさと、凛気のある存在感を漂わせていた。わたしは、……トモカは半分目を閉じて、まなうらの記憶を探った。顔。空白を引っ掻いて、傷痕を作って光が消えていく。誰かの顔が残酷な焼印のように、痛ましい桃色のケロイドのように、そこの奥に刻まれてある。チリチリと腹の底から体が焦げてくるようなのに、その目も、その額も思いだせないのだった。ただのっぺらぼうの化物が、狡い笑みを浮かべて、深い穴からこちらを見ているのだった。
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あさぎ作小説「終末カグヤ」⑭とあさぎ屋外ヌード

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「はい、どうぞ」と、おしゃまな五歳くらいの女の子はトモカに和紙の小さな包みを差し出し、すぐに真顔ではにかんでしまって、親の背中へまわって隠れた。包みの和紙はうっすらと鶯色に染められていて、カラメルの匂いがした。「こいつが自分で染めたんだぜ」と、親は言う。体の形はまるで熊、ずんぐりむっくりの胴体に肩までのもつれた髪の男は、しかし眼差しは丸く、玩具のビーズをはめ込んだようだった。
〝秘密基地〟の中は案外に広くて、小さなトンネルの奥は、もっと背の高い大きなトンネルと、農業機械が置かれている倉庫になっていた。そこからは土手向こうの池なのだが、池にはすでに水がなく、上にはテントのように覆いかぶさった草が陽を遮っている。男とその娘である女の子の他に、三グループほどがその空間をシェアしていた。体を小さくしながら、アヒル歩きで抜けたトンネルの先、ふわりと鼻先によぎった軽やかな緑の布。橙と朱色の布。羽根雲のひっかいた白さを模様にした空色の布。元は白いシーツか何かだったのを、絞り染めに染め抜いて上から吊るし、或いは掛けて置く。ちょうど平安時代の几帳のように見えた。互いのプライバシーの保持のため、視界はほどよく遮られ、しかしそれらは互いの生存の空気をひっそりと伝えあうように、微風と、気配とを通した。トモカが、脇に垂れた布をを少しめくってみると、几帳の棒は古いカシロダケで出来ていた。
「枯れた倒木を……」榊は、見るでもなく答えていた。「立ってるのを切ったりは、俺はしない。皮のほうが好きだ」
「うん」トモカは、その節のところを、そろそろと触ってみる。榊は、几帳の奥に声を掛け、例の熊のような男を呼び出した。断続的に時を経つつ会う者の顔の、親しい綻び。熊男の着ているジーンズのツナギには無数の木屑、脚には肩までの髪を可愛らしく編んだ女の子がまつわりつき、怪しそうな目でトモカを見る。けれど、トモカが榊に「竹林で拾ってきた」と、なかなか無残な紹介をされると、なぜか安心したようで、例の包みをくれたのだ。
「絵描きの卯野と、娘の絢子だ」
 榊はトモカにも、紹介する。ウサギの野、という柄ではとてもない男は、肘に裂けた傷跡のある腕で榊の籠を受け取って、「おう、おう」と、歌うようにつぶやいた。品物から例のばれんを取り上げて、「榊のばれんは、いいなあ。ほんの毛ほどの彫り筋も逃さず、広い塗りも掠らせずに写す。早速、使わせて貰うよ。他にはこれと、この小物入れと……」小さな絢子は、マシュマロの棒のような軟い腕をそちらへ伸べて、視界からは高すぎる場所にある品々の香りと光を、背伸びして捕えている。「パァパ、絢子、袋を染めてあげるの。絢子、袋を染めるの」「あとでな」卯野は、絢子の頭からみずみずしく生える黒い絹糸を撫でてやる。「今日のぶんの、字のお稽古は終わったのかい?」「……んーん。字、できるようにならなきゃだめ?」腕にぶらさがろうとする童女の愛くるしい、無知で純粋な眼に、卯野は辛抱強く答える。「うん。絢子のために、いっぱい、本を用意してあるからね。みんな、もういない人たちだけど、僕や絢子のために、宝物を残していってくれているんだ」
「たからもの?」絢子は、わかったような、わからないような、けれども顔色をほのかに輝かせた。トモカは、竹の節に触れたまま、なぜか胸がずきん、とした。卯野はそちらに目をやって、髭の中で笑った。
「そのあたりは、きれいな〝よ〟だろう」
「よ……?」
「竹の節のことを、古い言葉でそう言うんだ。今の字で書くと、世の中の、世」
 トモカの指先が、節の上にその字を書く。絢子の瞳が、円らにそれを眺めている。
「そうだね。竹は、たくさんの節が連なって出来ているだろう? その姿を、一つの宇宙の、長い時間の流れに見立てたらしいんだ。その節のひとつ、ひとつが、人間が生きる時代のひとつ、ひとつってことなんだろうね。君の指差しているとこが現世だとしたら、そのひとつ前の節は、前世。ひとつ後ろは、来世」
 トモカは卯野の言葉に従って、指を一つ過去へ戻し、一つ未来へ動かし、行きつ戻りつして、その先にずらりと連なる、白くしなやかな『来世』に目をやる。卯野は、その小山のような肩を揺らして、また笑い、「まあ、もしかしたら、今はここかもしれないけどね、」竹の一番端の節を黒く固い指先で指して、「『来世』のない場所、切られちゃった竹の一番先っぽの所。みんな〝あいつら〟にやられちゃって、もう次の節は育たない。……でもね、僕はまだ、この竹は活きてる竹だって思ってるんだよ。今はちょっと障害物にぶつかって伸びられないだけで、やがてその周りをゆっくりじっくり回避して、ちゃんと上の、広い空へ出る」
卯野の体の後ろには、スペースの中ほどを遮った、空の白さと青さとを染め抜いた布がある。榊は鞄の整理を止め、卯野と一緒に中へと姿を消す。トモカは、どこかで見たような、大きな岩の下に生えてしまった樹のことを想像した。樹は岩の周りを、長遠な年月をかけて光の方向へ迂回し、その先端を青いほうへ、ほうへと、狂おしそうに近づけていく。その根も同じように、地中の大小の石を抱き、かかえて細かな根でくるみこみながら。湿った透明な粒子を集め、透明な血液へと溶かして、上昇と運搬、穏やかな蒸散。卯野の掌が、不意に布の雲間から出てトモカを手招いた。トモカは、古い草色の絨毯の端で草履を脱ぎ、足の裏をむずむずさせながら従った。

あさぎ作小説「終末カグヤ」⑬とあさぎ屋外ヌード

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それから二十分ほど、足裏を押しあげる豊穣な土の響きだけ感じながら、坂を下った。手造りの草履は、土を踏みしめるたびに、ほどよい弾力をトモカに返してきた。傾斜は徐々に緩くなり、平坦に変わった。
 里野には、干上がった小川が、無残な黒い溝になって道と平行にくねっている。遠くに、住宅街の痕跡が、真昼のか細い幽霊になって、立っていた。そのもっと奥にある、灰色の荒れ果てた墳墓は、都市の残骸だろう。かつては摩天楼といわないまでも、ビル風を巻き起こし、陽に輝きながら通勤する者たちを見下ろしていただろうビル群は、山たちと同じようにえぐり取られ、破砕され、割られているようだった。真昼の月晶を砕き散らした眩い風が、トモカの体をやさしくなぶった。
 その遠景がはっきりするくらい近づいたあたりで、榊の姿が不意に消えた。「えっ」とトモカが凍り付いていると、道の脇に密集した草の間から、榊の手の先がひらひらと揺れ伸びてくる。「こっち」と、その手と声に導かれて覗き込んでみると、道の脇に深い溝があり、かつては農業用水か何かを流す小川になっていようだった。草が伸び放題になっているために、溝自体が隠れて見えなかったのだ。トモカは恐る恐る、榊の手が出ている脇へと脚を下ろしてみた。草の間から見える榊の目に、「大丈夫、そんなに高くないから」と促され、重力にまかせてみると、足首や膝を三角形の草っぱがこすりあげて痒くなったと同時に、足が下へついた。
「……あ、こんな」
 懐かしい、と口走りそうになって、胸を押さえる。頭は何も思い出せないのに、甘やかな心地を、鼻や皮膚が記憶している。すぐ前の溝の壁には、腰をかがめれば通れる小さなトンネル。水位の調整用だったのか、色の剥げたハンドルが、機能を喪失したまま退屈げに入り口に突き出ている。
「君もガキの頃やった? こういうの。秘密基地」
「うん、そんな気が……する。たぶん。わくわくした、こういう場所見つけると」
 自分だけ、または自分と仲間だけが知っている小さな場所を作って、好きな本とかおもちゃとか持ち込んで、遊ぶんだ――家でやればいいようなことでも、どうしてだかその場所ですると、ぜんぜん違った……。そうトモカは考え、その半分くらいを話した。榊は目を、細く消え入りそうにした。「えっ?」トモカが怪訝な顔をすると。榊はうなずいて、答えた。「あんた、やっと笑った。よかった。笑えないのかと思ってた」
 トモカは、自分の頬を触ってみた。無意識に広げた自分の笑みが、少し窪んだ。

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あさぎ作小説「終末カグヤ」⑫とあさぎ屋外ヌード

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「どうかした?」
 トモカから数メートル離れて、榊は止まった。トモカが答えあぐねていると、体を向き直らせて、自分のすぐ後ろで二股に分かれている道の、上の方を指し示した。「……あそこに、あの竹の森がある。俺が毎朝行く所。あんたが、倒れてた、」トモカの顔がその言葉で、ようやく動く。その通りに目線を辿らせると、肌色に近い白の、光り艶めく繊維の不思議なあの竹が、坂のずっと上にひと塊の森になって、穏やかに体を揺すっているのだった。すぐ向こうの山は毀たれているのに、涼しげな葉ずれの音が満ちるその周囲は、土が焦げてはいてもほとんど傷んでいない。
「ん」
 榊は、眉の上に、物見の形に掌をあてた。今度は崖の向こうの、集落の周辺の山に体を向ける。眉を少し寄せた。「『あいつら』、今日もいつもの感じだな。前に見たよりも一つ、多い」
 トモカは喉から、うっ、と短い声を絞った。
青い大気の、その濃さの上から、集落だった山の稜線に沿って、チリチリと発光する金色の楕円が降りてくる。遠眼なので正しい大きさは不明だが、数は五つほどで、くるくると互いに回りあいながら、激しいスピードで稜線の形を滑り始める。急上昇したり、山を貫いたその穴を潜り抜けたり、時折山肌にぶつかるほどに接近したり、かと思うと唐突に静止して、縁をこすり付け合う動作をする。トモカがまばたきをした丁度その時、五つの個体は花弁形に集合し、縦横に伸びる固い光を放った。光は緩いカーヴを描いて山肌に当たり、鈍い空気の振動がとどろいて、山は積木の部品を外したように、呆気なく五分の一ほど消し飛んでしまった。
 白煙は、遅れて、その周囲を包む。炎はほとんど出ない。楕円たちは、その煙の中を、上下運動を繰り返しながら行ったり来たりした。
攻撃、というけれど、トモカの目には、それらには攻撃の意図など、まったくないかのように見えた。その楕円たちには、彼ら自身のなにか言い難い生理があって、それに従ってただ動いているだけのように見えた。他の生き物が死ぬとか、壊して意味があるのかとか、そんなことには全くの無頓着か、概念自体がないのかもしれなかった。榊は、遥か昔の、乗用車が見上げるようなサイズで、稲の背が胸まであった夏休みを思い出した。あの頃はよく、他の子が造った砂山を全部崩してしまったり、蛙や蝉の腹を裂いたり、蟻を踏み殺したりしたが、それをしてはいけない理由は、なんと言い聞かされてもよく分からなかった。害意も、悪意も、目的もなかったからである。
そもそも、つくりが全然違うのだ。彼らの目に地球の生物がちゃんと〝生物〟に見えるのかどうかも、不明だった。人間の目に至っては論外で、赤外線も紫外線も見えず、宇宙空間も九割以上が見えずに、仕方なくダークマターなどと呼んでいる始末だ。世界の一割の感覚で認識できる物は、あまりに少ない。
確かなのは、ああいったものが何千何万と今の地球にいることと、どんな武器も言葉も歌も、通じなかったということだけだ。交渉の手段はなかった。相手は、支配も、奴隷も、物資も、喜びも、コミュニケーションも求めてはいなかった。
上空に、更に二個ほど、やや錆びた赤色の楕円が現れたが、ただ黙って光っているだけで、動かない。これらが人間の前に初めて現れてからもう三年近く経つが、破壊は、延々と続いている。それも必ず規則正しく、地球の一自転ごとに範囲が広がり、頻度が増し、数は増えるのだった。
「行こう。見ていてもしょうがない」
 榊はトモカを目で促し、また、草を踏み分け始めた。蒼穹を、長閑な欠伸のように、薄い雲切れが過ぎていき、灰色の影が二人の肩を撫でる。トモカは楕円の光について様々な想像をめぐらしながら、さっきよりも足早に付いていった。

あさぎ作小説「終末カグヤ」⑪とあさぎ屋外ヌード

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崖の向こうにはいくつかの山が連なっているのだが、どの山にもまるで食いしん坊が食い散らかしたケーキのように、ごっそりと齧り取られたような大穴が空いて、崩れている。それとも上三分のニほどが丸ごと吹きとんで、切り株のようになってしまったものや、ちょうど真半分のところで割られて、右側だけまるまる無いもの。山肌は、主に灰色か黒褐色だが、それでも若い草の色が麓付近や、峰を彩ってかろうじてしがみついている。
 もう少し下へ目線を傾けると、大きな山の影に、集落の跡が見える。集落だったと分かるのは、ぽつぽつと壊れ残った加工された石や、柱の跡、ぶつ切りにされた蛇のような惨めな道路からで、コンクリートの破砕の新しさを無視すれば、遺跡の眺望と言ってもよかった。真上の空は、青かった。穏やかな風が、まだ、後ろの梢を揺らし、無数の熊笹はささやかな金銀の鈴と、グラスハーモニカとのコンサートを奏でている。
 トモカは、朝、榊に聞いた断片的な話を思い出す。「ここは、どこですか」「いまは、いつですか」「私は、どうなったのですか」……トモカが、せねばならなかった根本的な質問に、榊は例の調子で、竹細工のついでのように答えたのだ。
日本中が、おそらくこうなっている。大都市も、地方も、野も山も海もおかまいなしに、破壊の禍に呑まれた。攻撃が始まってから通信網はすぐに途切れ、テレビもインターネットも沈黙し、人々はただ目の前の世界を見るのみになった。「外国なら」と、港や空港に向かって逃げた者たちもいるというが、榊のように「どこだろうと同じだ」と考えた者は、ただ自分の居場所に残った。
国家は、脆弱な腹を晒しながらも、持てる力の限りをつくしたようだった。兵を出し、機械を出し、食糧や警官を出した。榊は元々ここに住んでいたわけではなく、山からそう遠くない地方都市で、職人の見習いをしていた。竹皮細工は、亡くなった祖父の店で習い覚えたもので、二十一世紀の始まった頃には、既にほとんど絶滅していた手技だった。
暮らしているすぐ傍を、閃光が行き来し、焼け焦げた戦車や、泥だらけの自衛官たちが走って行くのを見た。どの顔も、固まった汚れの中に瞳だけが、涙か、必死の意思かにぎらぎら光っていて、二度と戻らなかった。それから暴徒たちが現れた。榊は周囲の他の人々と同じように、殴り倒され、もみくちゃに踏まれて、持っているものすべてを奪われた。といって、大したものを持っていたわけではなかった。ほとんど竹にしか興味がなかったからだ。榊が頭を傾けると、今も右の側頭部に、そのときの裂傷の跡が見える。
 ――カシロダケの森へ行こう。
 そう、思った自分を榊は覚えている。森の傍の山小屋は、廃屋同然だったものを安く譲りうけて、週末になるたびに、少しずつ材料を運んで修繕していたものだった。カシロダケの森の強さが、山を守ってくれるかもしれないという微かな期待もあったが、それ以上に、ただその傍へ逃げ込みたかった。澄んだ空気と、トパーズ色の陽光に乗って聖者の吐息のように降り注いでくるタケヤネを感じることで、生命を見失わない気がした。